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ペマキッドの戦い (1696年) : ミニ英和和英辞書
ペマキッドの戦い (1696年)[ぺまきっどのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 
: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 

ペマキッドの戦い (1696年) : ウィキペディア日本語版
ペマキッドの戦い (1696年)[ぺまきっどのたたかい]

ペマキッドの戦い(ペマキッドのたたかい、Siege of Pemaquid)は、ウィリアム王戦争中に起こった戦闘である。フランスインディアンの連合軍が、ヌーベルフランスから、イングランド植民地ペマキッド(現在のメイン州ブリストル)を攻撃したもので、このペマキッドはアカディアと国境を接していた。戦闘を指揮したのはピエール・ル・モイン・ディベルヴィユジャン=ヴァンサン・ダバディ・ド・サン=キャスタン(パンタグ、現在のメイン州キャスティン出身)で、この砦の駐屯隊長だった大尉パスコ・チャブは、1696年8月14日の二日間に及ぶ戦いで降伏した。ディベルヴィユは兵士のうち3人を殺し、あとの92人をボストンに送り返した。
このペマキッドの勝利は、ウィリアム王戦争中のフランスの勝利でも意義深いもののひとつだった〔Herbert Milton Sylvester, ''Indian Wars of New England'', p. 484〕。この戦いの後、ニューイングランド軍は報復としてアカディアへの襲撃(シグネクト奇襲)を行った〔John Reid. "1686-1720: Imperial Intrusions". In Buckner, P. and Reid J. (eds). ''The Atlantic Region to Confederation: A History''. Toronto University Press. 1994. p. 83.〕 。
==歴史的背景==

17世紀の大部分の期間、ペマキッド(現在のメイン州ブリストル)は、ニューイングランドの中でも最も北部の沿岸にある植民地であり、一方パンタグ(現在のメイン州キャスティン)は、ヌーベルフランスのアカディア植民地の最南端にあった〔Griffiths, E. ''From Migrant to Acadian''. McGill-Queen's University Press. 2005. p.61〕。
1692年までに、イングランドはこの地域の支配を奪還し、マサチューセッツ湾直轄植民地総督サー・ウィリアム・フィップスが、破壊されたペマキッド砦の代わりにウィリアム・ヘンリー砦を作るように命じた。このウィリアム・ヘンリー砦は、ニューイングランドの北の境界を守る砦となり、またニューイングランド最大の砦でもあった〔 Webster, J.C. Acadia at the End of the Seventeenth Century. Saint John: New Brunswick Museum. 1934; Acadia at the End of the Seventeenth Century : Letters, Journals and Memoirs of Joseph Robineau de Villebon, Commandant in Acadia, 1690-1700, and Other Contemporary Documents, Edited by Webster, John Clarence. 1934. p. 68 〕。
マサチューセッツの政府は、この砦の建設に予算の3分の1を費やした〔Kayworth and Potvin, p. 104〕。石としっくいでできており、地上10フィートから12フィート(約3メートル5センチから3メートル65センチ)の高さのところに6フィート(約1メートル83センチ)の厚さの壁の砲門があり、18門の大砲が備え付けられていた。この砦は、大尉のジョン・マーチの指揮の下、ベンジャミン・チャーチの助力を得て再建された〔William Durkee Williamson, ''The history of the state of Maine: from its first discovery, 1602 ...'', Volume 1, p. 365〕。砦の駐屯隊長は大尉のパスコ・チャブで、この人物は、アベナキ族による休戦協定をふみにじり、アベナキの重鎮たちを何人も殺していた〔。
一方、1696年当時、フランスの勢いは大西洋地域にまで広がり、防御がより一層強化されるようになっていた。ニューファンドランドでは、戦略的な転機が訪れていた。フランスのこの大西洋進出は、カナダ生まれのピエール・ル・モイヌ・ディベルヴィユによるところが大きかった〔Canadian Military Heritage 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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